この備忘録を共有したいのは
- 『鬼滅の刃』が好きな人
- 鬼にも共感を覚える人。特に、猗窩座と妓夫太郎が好きな人
この備忘録を読めば
- 猗窩座と妓夫太郎の共通点を味わうことができます
- 「刺激と反応の間には、選択の自由がある」という考え方を学べます
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<目次>
- はじめに
- 「刺激と反応の間には、選択の自由がある」
- 「選択の自由」は「生理的欲求・安全の欲求」が担保されてこそ
- 「大切な人を守れなかった」絶望を味わい続けた猗窩座
- 「妹とどうやって生き延びるか」しか考えられなかった妓夫太郎
- 猗窩座と妓夫太郎の共通点
- 他の上弦の鬼たちとの違い
- 「前を向いて生きる」という選択ができた竈門炭治郎
- 共感せざるにいられない、鬼の儚い煩悩
- 人を裁く前に背景を見つめ、自分の環境に感謝しよう
- まとめ
はじめに
自己啓発の名著『7つの習慣』の筆者である心理学者ヴィクトール・フランクルは言いました。
「刺激と反応の間には、選択の自由がある」。
けれど現実において、ときに私たちはそんなことを自覚できないほど、追い詰められることがあります。
『鬼滅の刃』に登場する鬼たちの中で、私が好きな、猗窩座と妓夫太郎。その二人の共通点がまさに、「刺激と反応の間には、選択の自由がある」なんてたやすく言えない過去を持つということです。
本記事では、猗窩座と妓夫太郎という2人の鬼の過去に焦点を当て、自分で人生を選択していくことのかけがえのなさと向き合ってみたいと思います。
「刺激と反応の間には、選択の自由がある」
これはつまり私の解釈では、「何か出来事があったとき、その出来事をどう捉えるかは、自分の自由だ」ということです。
何か、つらい出来事があったとする。これが【刺激】です。それに対し、反射的に負の感情を抱いてしまう。そしてネガティブな思考、行動へと連鎖してしまう。これが【反応】です。でも、我々は本来、刺激から即座に反応するのでなく、その出来事をどう解釈するかを自分で【選択】することができるんだよ、刺激と反応の間にはそれだけのスペースがあるんですよ、ということです。
具体例
例えば、上司にこっぴどく叱られた。この【刺激】を、「こんなに叱られるなんて自分はなんて駄目なんだ」とか「上司は自分のことを買ってないんだ」とかそんな風に解釈し、落ち込む、腐る、さらには辞めてしまうなどの【反応】を起こしてしまうことがある。
でも、この同じ【刺激】を、「上司は自分に期待しているからあえて苦言を呈してくれる」と解釈して、すぐさま学びに変えてさらに仕事に邁進するという【反応】を起こす選択肢もある。
その、前者と後者を私たちは【選択】できるんだ、ということなんです。
「選択の自由」は「生理的欲求・安全の欲求」が担保されてこそ
私はこの言葉をとても大切にしており、ピンチや辛いことがあった際に、自分自身にも、チームメンバーにも、しばしば「ポジティブに捉えてみよう」と促します。上述の「刺激と反応の間には、選択の自由がある」という考え方を実践したいからです。
でも。実際には、この考え方を実行するには、いくつかの前提条件が必要だとも、私は思います。たとえば、下記のような条件です。
【選択の自由を感じることのできる、前提条件】
- 生きていくための最低限の食事や睡眠の担保
- 身の危険のない、安全な環境
- 自分のことを理解してくれる味方がいる
- 「ここから抜け出せるかもしれない」という希望
特に最初の2つは、いわゆるマズローの欲求5段階の低階層である「生理的欲求」「安全の欲求」に該当します。こうした最低限の土壌がないと、人は「選択の自由」の前に、そもそも複数の「選択肢」が思いつかなくなると思うのです。
つまり、「刺激」に対して「反応する」ことしか選択できなくなる。
「大切な人を守れなかった」絶望を味わい続けた猗窩座
病気の父親の介護
上弦の参の鬼・猗窩座の人間時代の名前は狛治。
自分の楽しみを犠牲にして、病気の父親の介護をしていました。今でいうところのヤングケアラー。家は貧乏、だけれども、父親に飲ませる薬や栄養豊富な食材は高価。結果、金品を奪うなどのあくどいことをしては罰せられて身体を痛めつけられるという繰り返しの日々。
猗窩座のこの毎日には、他にどんな選択肢があったでしょうか。弱っていく父を受け入れる…それくらいしかないのではないでしょうか。狛治に、「選択の自由」はほぼありませんでした。
そんな息子を不憫に、父親は首を吊ってしまいますが、その遺言は、「真っ当に生きろ まだやり直せる」。世話をかける自分はいなくなるから、おまえは幸せな人生を歩めという親心だったのだと思います。
慶蔵・恋雪との人間らしい毎日
父親の遺言は知りつつも、父親の首つりというショッキングな出来事を受け、世の中に絶望し、恨み、自暴自棄になる狛治。そこに現れたのが師匠となる慶蔵です。「生まれ変われ 少年」「罪人の悪いおまえは先刻ボコボコにしてやっつけたから大丈夫だ」と、狛治が人生をやり直せるよう導きます。
「真っ当な人生を生きる」と選択
狛治は、慶蔵との修行、恋雪の介護の日々を通じて、穏やかな暮らしを取り戻していきます。そして慶蔵から「恋雪と結婚して、道場を継いでほしい」と頼まれ、狛治は、父親の遺言である「真っ当な人生」を生きることを自分で選択します。
絶望の中、刺激に反応した狛治
でも、狛治が選択して間もなく、慶蔵さんと恋雪は、井戸に毒を入れるという卑劣極まりない方法で、隣の剣道道場の跡取り息子と一部の門下生によって、殺された。
狛治は剣道道場に殴り込み、67人全員を殺害します。そして、鬼舞辻無惨に出逢い、鬼の猗窩座となりました。
やり直せず、生まれ変われなかった。
選べなかった狛治を責めることはできない
こんな状況で、狛治が何を選択できたでしょうか。刺激と反応の間にスペースを見出すことができたでしょうか。「起こってしまったことにこだわらず、前向きに生きることを選ぼう」なんてことが言えるでしょうか。言えっこありません。
むしろそんな言葉は、物語終盤に無惨が炭治郎に言うセリフと同じだと思います。「死んだ人間が生き返ることはないのだ いつまでもそんなことに拘っていないで 日銭を稼いで静かに暮らせば良いだろう」。
たしかに本来なら、目には目をの殺人、直接関与していないかもしれない人間まで、師匠に教わった武術を血で汚すことはすべきでなかった。
でも、それを耐えることのできなかった狛治を、私は責めることはできません。
「妹とどうやって生き延びるか」しか考えられなかった妓夫太郎
遊郭の最下層、暴力と差別の中で
続いては妓夫太郎です。彼は遊郭の最下層で、生きていると飯代がかかる邪魔者として子供のうちから何度も殺されそうになり、その醜さ、気味悪さを忌み嫌われながら必死で生きていました。
「虫けら ボンクラ のろまの腑抜け 役立たず なんで生まれてきたんだお前は」。戦いの中で妓夫太郎が竈門炭治郎に浴びせた言葉はそのまま、自分が人間だった時に石とともに投げられた罵詈雑言でした。
暴力と差別の中で、彼は「奪われる前に奪う」という生存戦略しか持てなかった。他の選択肢は彼には思いつきませんでした。
コンプレックスを強みに変えることを選択
唯一の支えが、美しい妹の梅(人間時代の堕姫)でした。彼女を守るため、妓夫太郎は取り立ての仕事を始めます。自身の強さはもちろん、容姿の醜さ・気味悪ささえも武器にしたのです。この頃は、まぎれもなく、妓夫太郎が自分で「選択していた」と言えるでしょう。
再び、選択肢を奪われる
しかしながら、妓夫太郎が13歳の時、梅が侍の目玉を簪で突いてしまい、縛り上げられて生きたまま焼かれてしまう事件がおきます(突いた理由は、兄の妓夫太郎を侮辱されたから、と「公式ファンブック 鬼殺隊見聞録・弐」に記載されています)。さらには妓夫太郎自身もその侍に切られてしまいます。
こんな状況で、どこに「選択の自由」があるでしょうか。
二人はずっと、「どう生きたいか」ではなく、「どうやって生き延びるか」しか考えられない環境で必死に日々を生き抜いていました。そしてその末路、人間に殺される寸前。
「生理的欲求」も「安全欲求」も満たされず、支えてくれる大人も、相談できる相手も、「ここから抜け出せる」と教えてくれる誰かもいない。
唯一、与えられた他の選択肢
そんな状況で上弦の弐の鬼・猗窩座に与えられた「鬼になる」という選択は、彼らにとって唯一の「救い」にすら思えた道だったのかもしれません。だからこそ、妓夫太郎は「鬼になったことに後悔はねぇ 俺は何度生まれ変わっても必ず鬼になる」と言います。「鬼になる」か、「殺される」か。前者を選んだ妓夫太郎を、猗窩座同様、私は責める気持ちにはなれません。
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猗窩座と妓夫太郎の共通点
猗窩座と妓夫太郎は、辛い出来事が積み重なり、逃げ切れない局面に直面し、、鬼になってしまったという過去の共通点がありました。
実はさらにもうひとつ、この二人の鬼には共通点があります。
それは、誰かを守るために強くあろうとしていることです。
父を、師匠を、恋人を守るために強くあろうとした狛治
狛治は、父を失い、師匠を失い、恋人を失い、何度も何度も「大切なものを守れなかった」という絶望を味わい続けた青年でした。
「守るには強さが必要だ」「強さがなければ、また失ってしまう」
鬼になった彼は、強さこそがすべてだと信じ込み、他者を拒絶し続けました。その根底には、何度も失ってきた痛みへの恐れがありました。
妹を守るために強くあろうとした妓夫太郎
妓夫太郎は、「(自分が)鬼になったことに後悔はねぇ」と言いながら、「俺の唯一の心残りはお前だったなあ」と、自分の妹でなければ梅はもっと良い人生を歩み、鬼の堕姫にはならなかったのではないかと、梅を気遣います。人間時代から、妓夫太郎はずっと妹を守るために強くありました。
どんな辛い境遇でも、「俺たちは二人なら最強だ。寒いのも腹ペコなのも全然へっちゃら。約束する。ずっと一緒だ。絶対離れない。ほらもう何も怖くないだろ?」と妓夫太郎は妹を守り続けました。
そしてそれは、鬼になってからも変わることはありませんでした。
他の上弦の鬼たちとの違い
辛く残酷な出来事に対して即、反応してしまった猗窩座と妓夫太郎。その二人の鬼を責めることは自分にはできない…、と上述しました。
では、他の上弦の鬼たちも同様でしょうか。
たしかに黒死牟や獪岳といった他の鬼たちもまた、辛い過去を抱えていました。
けれど彼らには、「それでも違う道を選べた可能性」が猗窩座と妓夫太郎の二人よりもはるかにあったように私は思います。
たとえば黒死牟(人間時代の呼び名は継国巌勝)は弟である縁壱への嫉妬から、鬼になるという選択をしました。鬼舞辻無惨に、「おまえは選ぶことができるのだ」と言われているのは、象徴的でもあります。
しかしながら、弟と称え合いながら、自分も負けないようにと精進する道も選べたはずです。
獪岳も同様です。師匠である桑島慈悟郎が、新入りの我妻善逸に対しても自分と同じように分け隔てなく接することにひがみ、鬼になりました。
ただ、黒死牟同様に、善逸と切磋琢磨し、ふたりで雷の呼吸を継ぐという選択肢もありました。善逸が腐らずに努力を重ね、独自の七つ目の型、漆ノ型・火雷神を編み出したのとは対照的です。
なお、童磨や半天狗、玉壺が人間時代にどのような過去があって鬼になったのかのエピソードは上述の4人(猗窩座・妓夫太郎・黒死牟・獪岳)ほど本編で描かれていません。童磨は「宗教」、半天狗は「勤勉」、玉壺は「芸術」といったキーワードに誠実に向き合う生き方を選択する余地があったのか、なかったのか…。わかりません。
「前を向いて生きる」という選択ができた竈門炭治郎
辛い出来事に直面し、前向きに生きるという選択をできず、鬼になった猗窩座と妓夫太郎。
一方、『鬼滅の刃』主人公の竈門炭治郎は、鬼に家族が食われ、妹の竈門禰豆子も鬼にされるという辛すぎる出来事に直面しましたが、鬼とならずに前を向き、「厳しい修行に耐えて強くなって鬼を倒す」という選択を取り続けました。
なぜそれができたのでしょうか。それはやはり、炭治郎は上述の、【選択の自由を感じることのできる、前提条件】がギリギリのレベルで満たされていたからだと思います。
- 生きていくための最低限の食事や睡眠の担保
- 身の危険のない、安全な環境
- 自分のことを理解してくれる味方がいる
- 「ここから抜け出せるかもしれない」という希望
まず、上2つの「生理的欲求」「安全の欲求」は、鬼殺隊に加入したことで、隠(かくし)や神崎アオイのような戦闘に出ない隊士に、負傷の手当や食事などサポートを担ってもらうことで満たされました。3つ目の「理解してくれる味方」は、最初に出会った冨岡義勇、師匠となる鱗滝左近次、そして同期の我妻善逸と嘴平伊之助、柱の面々と、志を同じくする仲間に恵まれました。
そして最後の「希望」については、仲間がいること自体も希望だし、炭治郎自身が心のうちに希望の灯をともしつづける心の強さを持っていたことがあげられます。
「人は心が原動力だから 心はどこまでも強くなれる!」
これは、炭治郎が栗花落カナヲにかけた言葉。「刺激と反応の間には、選択の自由がある」と通ずるものを感じます。
ただ、どこまでも強くなんてなれないと思うし、人の心は元々弱いというのが私の持論。…、でも、だからこそ。わかっていながら自分を奮い立たすこの炭治郎の台詞に痺れます。
共感せざるにいられない、鬼の儚い煩悩
猗窩座は死の間際、涙を流しながら父や慶蔵さんと恋雪のことを思い出します。
妓夫太郎と堕姫は、「また人間に生まれ変わっても一緒にいたい」と願います。
彼らの物語は、ただの「悪役の末路」では終わらず、読んでいる我々の胸を締めつける。
それは、自分たちの心の中にも、鬼になる可能性を秘めた、一種の煩悩とも呼べるものがある、そのことを私たちはよくわかっているからだと思います。
炭治郎や柱、鬼殺隊の「友情」「努力」「勝利」という少年ジャンプのコンセプトを達成するサクセスストーリーはもちろん面白いですが、その裏側にある敗者の儚さを感じさせる鬼たちがいることも、この『鬼滅の刃』という作品のおおいなる魅力だと感じます。
人を裁く前に背景を見つめ、自分の環境に感謝しよう
現実の社会にも、刺激に対して即、反応してしまう人たちがいます。
怒りが抑えられない人、周囲を攻撃してしまう人、自分を否定してしまう人…。
それを肯定する必要はありませんが、一刀両断に裁くだけでなく、彼らが「なぜそうなってしまうのか」という背景に目を向けることはできます。
そして、自分自身が上述の、【選択の自由を感じることのできる、前提条件】が満たされているなら、そのことに感謝したい。
さらに、自分が、誰かのその前提条件の土壌を整える一助になれるかもしれないという可能性も忘れずにいたいと思います。
人は、自分の人生を選べるとき、初めて“人間らしく”生きられる。
そしてそれは、個人の意思だけでなく、環境や周囲の支えによって左右される。
猗窩座も、妓夫太郎も、堕姫も… 選べる人生を奪われた存在でした。
『鬼滅の刃』は、鬼の悲劇を通じて、人間の複雑さと、環境が心をつくる影響の大きさを教えてくれます。
まとめ
今回の備忘録
「刺激と反応の間には、選択の自由がある」。
何か出来事があったとき、その出来事をどう捉えるかは、自分の自由。でも、その選択の自由は、最低限の条件が満たされている土壌があってこそ。自分がその条件を満たしているならば感謝したいし、誰かの土壌を整える一助になりたいと思います。
猗窩座と妓夫太郎。選べなかった二人の鬼に、心の底で共感し、魅力を感じます。
「刺激と反応の間には、選択の自由がある」参考記事
