誰かと私の備忘録

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KANさんがいなくなって50日後に想うこと

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今日でKANさんががいなくなって50日。そして、今年が終わる。

今年始めた、Twitter(𝕏)に私はすごく救われた。

金曜の夕方、会議中に、学生時代にKANさんFANのご縁で繋がった東京のペンフレンドから、メッセージ通知が入ってきた。その時点で、どこか、予感めいたものがあった。会議中だったけれど、開かずにはいられなかった。予感があったのに、絶句した。そのあとの会議の中で私は色々と大事な発言をしたけれど、正直、全く覚えていない。

想像していたよりもずっとショックだったようで、しばらくずっと体と心がふわふわしている感覚で、何も手につかなかった。それは今も若干続いている。

歌は人生の栞だと思う。想えば私の人生の盛り上がる場面には、喜怒哀楽、必ずKANさんの曲が挟まっている。色々な人を想いながら曲を聴いた。色々な人とライブに行った。色々な人に、オリジナルで選曲したカセットを、MDを、CDを贈った。カーステレオやウォークマンで聴きながら色々な所に旅した。勉強しながら、仕事しながら、毎週ラジオを聴いた。結婚式で、自分の生い立ちビデオのBGMは『言えずのI LOVE YOU』だった。最後のエンドロールは『よければ一緒に』だった。

身内が亡くなった時は、お通夜やお葬式がある。そこで、親族や知人と、故人の思い出話に浸り、語り合い、偲ぶことができる。推しの有名人の場合、そうはいかない。忌引もない。心配してメールで連絡をくれる友達が何人かいて、それは本当に嬉しかったけれど、喪失感の行き場が少ない。

でも𝕏があったおかげで、私は救われた。気持ちを呟いたら、共感や優しい言葉をかけてくれる方がいた。いいねも、嬉しかった。そして、KANさんと直接親交の深かった方々のポストを沢山目にすることができた。KANさんを愛するファンの皆さんのポストもいっぱい見ることができた。中には、会話をさせていただいた方もいる。私の知らない生前のKANさんのお話もいっぱいあった。KANさんが愛したレストランが銀座にあるらしい。お店に出向いてレポしてくれている皆さんのポストを見て、私も絶対にいつか行きたいと思った。KANさんを偲ぶポストに、芸能人も一般人も、ファン歴の浅さも深さも関係なかった。皆で、KANさんを思い出し、語り合う、通夜振る舞いや精進落としの、悲しくも暖かい雰囲気を味わうことができた。

あとはやっぱり、ラジオ。というか、『radiko』。さらにはそれを録音できる『らくらじ』。便利なアプリがあるものだ。学生の頃は、KANさんのラジオを予約録音するのはかなり面倒だった。でも今は、クリアな音で、後から好きな時間にスマホでどこででも聴ける。また、サブスクに登録すれば、全国の番組を聴くことができる。おかげで、昨晩の北海道STVラジオ『ロックボンソワ』追悼番組も聴くことができた。

訃報を知った翌日のラジオで、スターダストレビューの根本要さんが「この後のマッキー然り、KANちゃんのことに触れなくても、収録済みってことだから動揺しないでね。これからいろんなアーティストが、自分の言葉で、KANちゃんへの想いを話していくと思います」といったニュアンスのことを言ってくれた。KANさんファンのことをすごく想像して伝えてくれた言葉だと思った。実際、少し時間が経ってから、いろんな親交のあったアーティストやDJの方が、KANさんの思い出話を各番組でしてくれた。

つくづく感じるのが、本当に全部の曲がいい曲だなぁということ。アーティストやDJの方が自分の好きな曲をあげられるのだけれど、まぁ散らばること。『カレーライス』が良いという人、『今度君に会ったら』が思い出の人、『東京ライフ』が聴きたいという人、『表参道』が好きな人・・・勿論、リスナーのリクエストも千差万別。オンエアされるそれら全ての曲を聴いて、「あぁ、本当にいい曲だなぁ」って、うるうるしながら、時ににまっとしながら、感じる。悲しいのに、KANさんの曲たちは、不思議とそんな僕らの心を癒やす力がある。

また、同業の方からの色々なお話から、KANさんのプロフェッショナルな一面を知ることができた。KANさんの仕事のスタイルは、”あえて、面倒くさくする”。それにより必然、”練習が多くなる”。結果、”本番で緊張感のある演奏ができる”。見習いたいと思う。私達が純粋に、何も考えず、ただただ演出に酔って聴き惚れて大笑いして盛り上がっていたあのライブもどのライブも、KANさんのプロフェッショナルな仕事の流儀から生まれていたんだなぁ。KANさん、本当に有難う。

今、「『愛は勝つ』だけじゃない、稀代のソングライターだった」という論調の特集が多いけれど、音楽ライターの森田恭子さんも仰っていたけれど、「遅いね・・・」って思う。正直、どうして、生前にそれが世の中に気づかれなかったのかが不思議でしょうがない。大江千里さんが、「だから、ピカソだよね」って仰っていた。ピカソはけっこう生前から評価されてた気がするけれど笑、たしかに、ゴッホやゴーギャンみたいだなって思った。「芸能界の”盲点”に君臨」とKANさん自身も生前仰っていたけれど笑、本当にそのとおりだ。”頂点”ならぬ”盲点”だからこそ、さらに大好きになっちゃったところもあるっちゃあるけれども。

その『愛は勝つ』がビリー・ジョエル『Uptown Girl』に影響を受けて創られたというのは知っていたけれど、その『Uptown Girl』もルーツとなる曲があったということを知った。こうやって、アーティストの魂は受け継がれていくのかなって思う。沢山のアーティストが、KANさんの曲を、想いを、仕事を、継承していくと言ってくれている。今は小学生の息子たちが将来、大好きなアーティストが出来て、その人の音楽のルーツにKANさんがいたら、嬉しい。ちなみに、彼らは『Oxanne-愛しのオクサーヌ-』と『丸いお尻が許せない』が大好き。もう少ししたら一緒にライブに連れて行こうと思ってたんだけどな。

『オー・ルヴォワール・パリ』という曲の歌詞に、”人生で大切なことは 反映も衰退も幸運も失恋も もちろん死に際も いかに趣があるかということだ”というフレーズがある。KANさんの死に際に私はそばにいたわけではないけれど、ギリギリまでラジオで声を聴かせてくれ、私達を心配させないポストを発信し、最後にはもう一度パリへ行き、お葬式もセルフプロデュースされたエピソードを聴くに、そして、死後になってこんなに皆に愛されていることや曲の素晴らしさ、そのお人柄までが知れ渡ったりしている今の状況を考えるに、とてもとても趣がある人生を送られたのは間違いないと思う。

でも。いつものライブの最後の全曲つなぎみたく、いなくなったこと、「やーってない、やってない!」って無かったことにできないかな。できないか。

この年末はぽかぽかとしていて、窓拭きやゴミ箱洗いなどの大掃除も気持ちよくやることができた。耳には、FM COCOLOの『KAN 1DAY SPECIAL PROGRAM』がずっと流れていた。朝6時から夜11時まで、全ての番組がKANさん特集。生前にこんな企画あったら、24時間ダジャレマラソンとかやられていたかもしれないと思う。その1DAY企画の締めくくりの番組のタイトルは"Our Favorite Songwriter"。本当に、その通り。私にとっても、大好きなソングライターだった。「有難うございます。私は、KANでした!」といつもライブの最後に深々と長時間お辞儀をするKANさんを思い出す。KANさん。本当に有難う。『ときどき雲と話をしよう』の”もうそろそろ、君のこと忘れよう”とはならず、ずっと、ずーっっと、忘れずに、私のこの先の人生にも栞として挟ませてもらいますが、年も変わるので、気持ちは前を向いて、しっかりと歩いていこうと思います。

では、股。ほな、さいばば!