誰かと私の備忘録

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【ネタバレ考察】『俺ではない炎上』映画と原作小説の違いまとめ

この備忘録を共有したいのは

・映画『俺ではない炎上』を観て、原作小説との違いが気になった人

・映画『俺ではない炎上』を観て、面白かったけれどモヤモヤしたところもあった人

この備忘録を読めば

映画と原作小説との違いについて、整理して理解することができます

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<目次>

はじめに

映画『俺ではない炎上』が2025年9月26日に公開になりました。

原作が大好きでしたし、同じく浅倉秋成さんの原作小説を映画化した『六人の嘘つきな大学生』も面白かったので、さっそく観てきました。

結論、すごく面白かったです。ミステリーであることはもちろん、ヒューマンドラマな側面も強く、コミカルでありながらサスペンス要素もあり。原作小説を読了していたからこその面白みもありました。

本記事では、映画と原作小説の違いを紹介します。あくまで個人的なイチ考察に基づくものであること、登場人物は敬称略であること、ご了承ください。

また、現在は「Twitter」は「𝕏」となり、「ツイート」も「ポスト」に変わっていますが、原作や映画どおり、本記事でも「ツイート」と表記しています。

映画と原作小説、両方のネタバレを含みますので、注意してください。特に、映画をまだ観られていない方は留意のうえ、自己責任でお願いします。

また、映画の知識のままで、追加情報なく原作小説を読む気になっている方も、こちらで引き返してください。

浅倉秋成『俺ではない炎上』あらすじ

外回り中の営業部長・山縣泰介に緊急の電話が入った。「とにかくすぐ戻れ!」どうやら泰介が「女子大生殺害犯」であるとされて、すでに実名、写真付きでネットに素性が晒され、大炎上しているらしい。SNSで犯行を自慢していたそうだが、そのアカウントが誤認されてしまったようだ。誤解はすぐに解けるだろうと楽観視していた泰介だが、成りすましは実に巧妙で誰一人として無実を信じてくれない。会社も、友人も、家族でさえも……。ほんの数時間にして日本中の人間が敵になり、誰も彼もに追いかけられる中、泰介は必死の逃亡を続ける。

(双葉文庫背表紙より)

映画『俺ではない炎上』キャスト

主人公の山縣泰介を演じるのは阿部寛さん。もはや原作小説を再読してもどこからどう読んでも阿部さんとしか思えないくらい、泰介のイメージにぴったりです。自信家である主人公を、コミカルに、そして派手なアクションで演じられています。還暦すぎてるとは本当に思えない!

その妻である芙由子は夏川結衣さん。ドラマ『結婚できない男』続編でズコー!ってなっていましたが、ある意味、お二人が結婚している姿を観れて嬉しかったです。

謎の大学生・サクラを演じる芦田愛菜さんは魂のこもった演技が圧巻でした。藤原大祐さんも、ウザいながらもどこか憎めない大学生・初羽馬を上手に演じられていました。泰介と仕事で絡む青江を演じられた長尾謙杜さんの演技は初めて拝見したのですが、とても考えた演技をされていると感じました。

そして、泰介の部下を演じるインパルス板倉俊之さんと浜野謙太さんもニマニマしちゃう演技で楽しめました。

注意!以下、ネタバレあり

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映画と小説の違い

それではここから、ネタバレに踏み込んでいきます。

驚きの改変!犯人が違う!

まず、最大の違いはこれ、犯人が違う!映画で犯人の青江は、原作小説では犯人ではありません。いやー、これは驚きました。

終盤まで原作通りで、そうだったそうだったと楽しく観ていたら、青江が車内のサクラを意味深にのぞき込んで、サクラも何か思い出そうとしているような。「ん?こんな描写あったっけ…?」と思いながら観てたら、青江の大事なセリフの話者が、芙由子になっている。おかしい、何かおかしい!そうしてるうちにあれよあれよと、「え?泰介じゃなくて青江が社用車運転するの?」「っていうか青江、あなたも現場に行くの?」「それってもしかして?もしかしちゃう?」って、もう頭の中大混乱。観てたら家屋ドッカーン!回想シーンのえばたんにオーバーラップするのは…青江!微笑みながら見つめてる!えー!!!思わず変な声出ちゃいました。

「こんなおかしな日本語、山縣泰介は使わない」

ちなみに原作では、青江と“えばたん”こと江波戸琢哉は全くの別人。芙由子が語った、「主人はこんなおかしな日本語を使わない」という話は、青江が泰介に、「(泰介が犯人でないことを)知ってます」と言ったあとに続けたものです。

映画で泰介は、「知ってます」と青江に言われてツーっと涙をこぼしますが、この流れ、冷静に考えれば青江が犯人フラグだと思うのですよね。実際、原作では、「自身を陥れた犯人は、青江だったのだ」と泰介はその瞬間に悟ります。ナポリタンに毒が入ってるんじゃないかとまで勘ぐってビビる。それを裏切っての「こんなおかしな日本語、大帝ハウスの山縣さんは絶対に許しませんから」だからこそ面白かったし、青江というキャラクターにしびれた。原作小説において屈指の名シーンでした。原作で泰介の涙がこぼれたのは、そのタイミングです。

一方、創られた物語でなく現実だったらと考えると…。疲労困憊な脳味噌では、冷静に推理小説脳で青江を犯人だなんて思えず、素直に、「やっとこんな自分を信じてくれている人に会えた」と思ってしまうのもそれはそれでリアルかもな、と感じました。

原作小説既読の方が犯人捜しは楽しめたかも

ちなみに一緒に観た中学生の長男は、下記から早々に犯人青江じゃね?と思ったそうです。

  1. オープニングのクレジットで長尾謙杜さんが良い扱いを受けていたので、けっこう重要な役と思った
  2. 冒頭で泰介に理不尽に詰められた時の青江の表情で、展開次第で動機ありと思った
  3. 泰介が自分を陥れた人物を思い巡らす際、妻と義母、職場の直接の部下はわかるとして、取引先の青江は違和感ありすぎた
  4. 「私はあなたが犯人でないと知ってます」は真犯人フラグ

でも、私は原作既読していたものだから、すーっかり油断していました。だから、上述の、えばたんと青江がオーバーラップする瞬間まで「え?嘘でしょ?まさか?」と存分に楽しめた。これは嬉しいサプライズでした。

青江を犯人にしたのは、「改悪」か?

「やっぱり悪くない人が理不尽な目に遭っているのを観るのは気分が悪いんですよ。『正義の心』というのが、私の中にもあるということでしょうね」と語る青江を、原作を読んだ人の多くは好きだったはず。故に、この映画で青江を犯人に仕立てたことを「改悪だ」と非難する人もいるのではないかと思います。

かくいう私も最初は少しそう思いました。でも、パンフレットで脚本の林民夫さんが下記の様に語られているのを読んで、とても納得しました。

  • 映像で観せていく映画の場合、それまで物語の中に出てこなかった俳優が急に真犯人として出てきたら観客は混乱する
  • 原作通りに大善スターポートで青年期の江波戸拓哉を登場させたとしても、その時点で役者バレして謎解きの意外性がない
  • 現在軸の中で、泰介に関係する誰かが真犯人だったという構造にしないといけないのではないかと考えた
  • 関係者を交えて相談した結果、青戸=江波戸にすることで犯人当てのミステリーとして成立するのではないかと考えた

なるほど〜。当然とはいえ、よくよく考えてくださってるんだなぁと感心しました。

ミステリーの顔をした、ヒューマンドラマ作品

本作はミステリーなんですが、映画は特に、「人間とはいかなる存在たるか」「自分たちはどう生きるか」を楽しいエンタメでありながら突きつけてくる、上質なヒューマンドラマ作品でもあると感じました。

以下、この映画から私が学んだことです。

SNSに泳がされない

この作品のテーマのひとつが「SNSの世界のデマや誹謗中傷に対する警鐘」であることは、とてもわかりやすいです。正しいかどうかもわからないようなネット上の情報を鵜呑みにせず、踊らされない。ましてや、その不確かな情報の拡散や、誹謗中傷の片棒を担がない。自分もSNSをやっているし、改めて、意識していきたい。

「歪な自己肯定感」に要注意

他にもこの作品は、色々なことをテーマとし、我々に教えてくれていると思います。

たとえば、自分という人間に対し、自分と他人とでは抱いているイメージが違うということ。

自分が若い頃、まさに泰介のような上司がいました。泰介のように、嫌われていることをご自身では全く感づかない人でした。当時はその上司のことを「なんて人だろう」と自分とは異世界の人のように思っていましたが、もしかしたら自分も、自分が抱いている自分のイメージどおりに他者からは捉えられていないかもしれない。というか、それが当然のようにも思えます。

自己肯定感は大切だけれど、「歪な自己肯定感」を自分は持っていないだろうか?時には客観的に自分自身の振る舞いを見つめることも大切。そんな風に、この映画は気づきをくれました。

元メジャーリーガーのイチローがかつてインタビューで、「『自己肯定感』は僕にとっては気持ち悪い言葉」と語っていたのを思い出しました。

「自分が悪かった」と認める素直さが大切

この映画の登場人物はことごとく、「自分は間違っていない/悪くない」と口にします。でも、映画を通じて、最終的に「自分が間違っていた/悪かった」と言うようになる人間もいます。

映画を通じての変化

この映画の中で、主要な人物の言い分がどう変化したかをまとめました。

人物 当初 最後
泰介   

「俺は、悪くない」

「悪かったのは、この俺だ」

夏美

「お父さんはひどい」(子供時代)

「私が悪かったの」
芙由子

「私が悪いって言いたいの!?」

「悪いのは私よ」
初羽馬 「僕は悪くない」

「悪いのは僕かもしれない」

「俺たちは悪くないっすよ」 「俺たちは悪くない」

青江

(江波戸)

「(常に自分は悪くないというような

 大人に)僕はならない」(子供時代)

「僕は悪くない」

ネット民

「犯人はこいつで決定」

「早く死刑にしろ」 など

「デマ拡散した奴は責任取れ」

「警察とマスコミが悪い」 など 

ことの被害の当事者となった山縣泰介と夏美と芙由子、そしてネット上でなくリアルの世界で直接サクラから紛糾を受けた初羽馬だけが、自己を省みる変化・成長を遂げました。

経験した者にしかわからないことがある。辛い経験は大きく人を成長させる。これは自分の経験からも、間違いないことだと思います。

辛い経験を通じての歪な自己肯定感からの脱皮・成長。これが、この映画の大きな本当のテーマだと私は思います。

映画のラストシーンはやや、きれいすぎでは?

職場ではなく家族だからこそ、難しい

ただ、泰介の病室で3人で「俺が悪かった」「私が悪かった」と言い合うラストは物語としてわかりやすくすっきりするのですが、一方でちょっときれいすぎ?とも感じてしまいました。

原作では、泰介が明確に変化を見せるのは職場にて。無実判明した泰介を手のひら返しで賞賛する部下たちに対して、泰介は今の自分が「言わなくちゃいけないこと」を語るのです。あえてその発言は明確に記されていないのですが、それはきっと、「自分が正しいと思い込んでいた。自分が悪かったことも多々あった」というような内容だったのではないでしょうか。

逆に、原作で描かれている範囲内では、「妻との再会は熱い抱擁と涙の中で行われるものと確信していた」泰介の意とは異なり、病室で再会した芙由子とはやはりぎこちない。これがリアルだと思います。十年以上に渡り蓄積していった夫婦間の距離というのは、そう簡単には埋まらない。上下関係が無く、ずっと一緒にいる夫婦だからこそ、職場の同僚と接するようにそう簡単にはいかないんじゃないかと思いました。

ただし、原作でも泰介は職場で「家に帰ったら言うべきことを伝えよう。夏美に十年以上、芙由子には二十年以上言えなかった」と思っているし、夏美はもちろん、芙由子も「話したいことがある」と泰介に伝えています。

きっと映画ほどわかりやすくきれいでなくとも、停滞していた家族が前進するんだろうなと、読者に想像させる、味わい深いラストです。

山縣泰介は本当に変われるか?

ちなみに余談ですが、この山縣泰介って主人公は、阿部寛が演じているからなんだか憎めないけれど、実際は義母の静子が言うように、相当ヤバいと個人的には感じます。

仕事の仕方もこの令和ではありえない古さだけれど(社外の掃除の女性まで叱責するのはちょっと異常)、10年前に娘を一晩、自力で出られない庭の倉庫に閉じ込めたのはひどすぎる。そしてなにより問題に感じるのは、母親がそっと逃がしてやったりせめて差し入れたりしてやる、それもできないような家族の関係性であったということ。

本当に変われるのか?山縣泰介?と思います。でも、泰介の中に変化が生まれているのは明らかなので、喉元過ぎれば…とならず、ずっと意識することが大切なんでしょうね。変化を一過性で終わらせないことで成長につなげるべし…、自分自身にも当てはまるなぁ。

映画ならではのオーバーラップ演出

オープニングを挟んで初羽馬の運転する青い車が泰介の白い社用車に変わる、この演出が初っ端から見事でした。他にも、映画ならではのオーバーラップ演出がいくつかあって、とても良いなぁと思いながら観ていました。

上述の、「僕は絶対正しい人間になる」という少年時代のえばたんからの、爆発を眺めて微笑む青江へのオーバーラップ。

それに、同じくえばたんが「みんなおんなじことしか言ってない」「自分は悪くない、自分の価値観は間違ってない」「僕はこうならないように気をつけなくちゃ」と語る画面が「僕は悪くない」という初羽馬に被さってオーバーラップするシーン。夏美が生まれた病室のシーンが泰介が入院しているシーンにオーバーラップするシーン。

小学生の夏美のアップから現代のサクラのアップにオーバーラップするシーンは素晴らしいと思いました。サクラが過去を思い出すような遠い目をしていたので、もしかしたらここで夏美=子供時代のサクラと気づいた方も多いのではないでしょうか。フェアだなぁと思いました。

コミカルテイストが映画前半は強い

映画を観て感じたのは、思っていたよりもコミカルテイストが強かったということです。特に前半はその傾向が強く、理由はいくつかあると思います。

泰介の心の声がない

まず大きいのが、小説では泰介の心の声がたくさん挿入されていますが、映画ではその心の声のすべては語られず、実際に声に出すセリフ、あるいは表情で表現されているということです。

小説では泰介の心の声がたくさん出てきて、最初はのんきに構えていたのが徐々に焦り、絶望に追い込まれていく心情がよくわかります。映画ではそれが割愛されているので、世の中のネット民に翻弄される泰介のドタバタぶりが、ややコミカルに見えました。

ちなみにこの心の声があるから面白い原作のシーンはたくさんあるので、もしもまだ原作未読の方がおられたら読んでみてください。

例えば、「俺のことを恨んでいた人間は、誰かいないか?」と訊ねる泰介に塩見が「本気で訊いてるんですか?」と答えるシーン。原作で泰介は「こいつは自分が犯人のくせに、真犯人が別にいるというような態度をとってやがる。そんな皮肉のニュアンスを感じ取れてはいた」と、的外れな勘違いを心の声でしているんですね。こういう、細かな心の声が実に面白い。

SNSの演出がコミカル

映画はオープニングから、キャストやスタッフの名前がツイートで表現されて、これは楽しい映画になりそうだぞというワクワクがあります。また随所で、エレベーターの扉やレストランの看板などにツイートが覆い被さるような面白い演出があり、ツイートの内容は泰介にとって非常に重たいのですが、観客にはコミカルに伝わってきます。

加えて、映画ではツイートだけでなく、ショート動画やいかにもな私人逮捕系ユーチューバーも登場しており、現代にフィットさせていました。

ちなみにパンフレットで監督の山田篤宏さんが「あるシーンで表示されるSNSのユーザー名を著名な叙述トリック小説のタイトルにちなんだものにしています。誰からも指摘されたことがないので、きっと気づかないと思います」と語られているのですが…、気づきました。「黒い井戸」さん、あなたですね!(小生、初めて好きになったミステリーがアガサクリスティ『アクロイド殺人事件』なので、すぐにわかりました。嬉しかったです。)

なお、原作はハンドルネームやそのつぶやきの「嫌ぁーなあるある感」がさらに強いです。映画ではどうしてもツイートの文字数が少なくなるので浅いつぶやきが多くなってしまうのですが、小説ではけっこう長文のものが多く、「あー、こういうツイート見るよね…!」と思わず膝を打ちます。

本作だけでなく『六人の嘘つきな大学生』しかり、原作者である浅倉秋成さんは、SNSの世界の負の側面を再現されるのがとてもお上手です。浅倉さんは、ハンドルネームのネタが尽きたら、それらしい内容のツイートを検索して、それをつぶやいている実際のハンドルネームを参考にされるそうです。リアルなわけだ。

泰介以外の登場人物たちに緊迫感がない

冒頭、支社長が泰介を支社長室に呼び出すのですが、これがなんともゆるくて。最初、将棋か囲碁でも長考されてるのかなと思いました笑。「おまえ得意先との会食で粗相したらしいな〜」くらいの責め方。現実にこんなことになったら、原作小説に「血相を変えて」「赤ら顔に浮いた汗」「充血した瞳」とあるように、もっと声を荒げたり、逆に冷酷であったりすると思うんですよね。

また、野次馬たちも、殺人犯の近くにいるとは思えない危機感のなさで笑顔で盗撮したりする。ちょっとこの辺りも、特に序盤は緊迫感がなくコミカルが勝ってる感じがしました。

ただ、庭の倉庫から原作では女性の頭部が現れるシーン。頭部はあまりに刺激的なので映画では手首に変更されていましたが、ここだけは図抜けてホラーで、怖かった!

コミカルテイストが強調されているのは、狙い通り

なお、ネギが原作小説よりも増量されたり車内に持ち込まれたり存在感を増していることからも、この、コミカルなテイストを強調しているのは製作陣の狙い通りだと思います。

原作者の浅倉秋成さんも、「極限状態だからこそ変な行動を取ってしまう人間の滑稽さを描いたつもりでした」「違うテイストの作品になったというよりは、むしろ僕自身できるものならこう描きたかったという方が正確です」とインタビューで語られています。

原作者・浅倉秋成さんの、映画に対するリスペクト

ちなみにこの原作者の浅倉秋成さんという方は、とても映画化された作品をリスペクトされていることがいつも伝わってきます。

『六人の嘘つきな大学生』のインタビューでも使われていた「換骨奪胎」というフレーズを、今回のパンフレットでも使われていました。「換骨奪胎」とは、外見は同じでも骨を取り換え胎盤を奪う、つまり、他者の着想や形式を借用しつつ、そこに自分なりの創意を加えることで独自の作品を創り上げること。

そして、「原作ファンにも安心して観ていただけるはずです」と原作者自身が語ることで、お墨付きまで与えておられる。今後もどんどん面白い作品を産み出され、映画化されていくんだろうなぁと楽しみになります。

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映画の少しモヤモヤするところ

上述のようにとても面白い作品と感じたこの映画ですが、ミステリーとして観た場合、少しモヤモヤした部分もあります。

なぜ警察を頼らない!?

泰介はなぜ逃げた?

これは、原作未読で映画初見だったら絶対に感じただろうなと思います。

最初に110番した時の警官の対応がしょっぱかったのと、封筒の怪文書に「誰もあなたの味方ではない。選ぶべき道は一つだけ。逃げる、逃げ続ける」と書かれていたことくらいが理由と推察されますが、明らかに弱い。むしろ怪文書を警察に提出すれば、重要な自分を助ける物証の一つになりえたのでは。

警視庁の会見で「不確定な情報の流布に手を貸すな」と言っているのを泰介はホテルで観て、「まともな人間なら普通そうだよ」と溜飲を下げていたのに…。

ラストで出ていた「犯人じゃないのに逃げたのは意味わからんけどさー」というツイートに、その通り!と思いました笑。

原作では、泰介がホテルの部屋でたまたま警察密着ドキュメントを視聴し、その中で警察が挙動不審という理由だけで犯人を特定していた。自分が殺害時間のアリバイがないどころか殺害現場付近にいたことも知り、さらには自宅庭の倉庫から死体が出てきたことから、取調室で拷問に近いような方法で殺害を自白させられるイメージが頭の中で固まっていく。結果、怪文書を疑いつつも味方からのメッセージだとすがってしまう…という一連の泰介の心情の流れが丁寧に描かれています。だから、警察を頼るという選択肢が泰介の中から現実味を失っていく過程に映画ほどの違和感は覚えませんでした(とはいえ、小説を読んでいる時でも、少しここは引っかかっていましたが。警察が嫌なら、せめて弁護士でも…!と)。

夏美はなぜ警察に情報提供しなかった?

なぜ警察を頼らなかったのか、それは夏美にも当てはまると思います。「自分が昔に作って父になりすましてつぶやいていたアカウントが、何者かに乗っ取られた」。そう情報提供すれば、泰介が警察を頼るよりもよほど、事態好転の可能性があったと思うのですが。極限状態で、夏美も冷静さを失っていたのでしょうか。

座標に早く気づいたのに?

なぜ、スナックしずくの段階で怪文書の最後の数字が座標を意味しているとわかったのに、スマホをGETしてすぐに調べなかったのか。

原作では青江にアドバイス受けるまで泰介は気づかないので、これはどうしてそんな改変をしたのか私には謎です。そもそも、あれが座標とは、泰介のデジタルリテラシーでは自力で気づかないと思いました。

青江はなぜ一度泰介を助けた?

映画では青江がえばたんこと江波戸琢哉であり、犯人。であればなぜ、コンテナハウスで泰介をかくまい、食事を与えて助けたのか。

大学生二人組(サクラ&初羽馬)からかくまったのは青江にしてみれば結果オーライだったわけですが、ネットに居場所を晒す、警察に連絡するなど、泰介を突き出すことを何故しなかったのか。心のどこかで、突き出すことによって真実が暴かれる可能性を恐れたのでしょうか。

あるいは、何らかの方法で外部から細工してコンテナハウスから出られないようにし、餓死や凍死させる方法も取り得たはずです。

私が唯一思い至ったのは、「娘にはめられた」という絶望感を味わせるところまでが青江の復讐だった、ということ。そこまで泰介にこだわる動機は少し弱すぎるようにも思いますが…。でも映画の青江はわざわざ何度も山縣家に忍び込んでパソコンからツイートしているわけですから、そもそも泰介に対する執着は常軌を逸しているんですね。

原作小説のモヤモヤは映画では解消

上述のように、映画のモヤモヤポイントは原作小説では生じない、あるいは軽減されているものが多いです。

逆に、原作小説のモヤモヤポイントも少しだけあったのですが、これは映画では解消されていました。

強引なミスリードのセリフは割愛

原作小説はミステリーとして本当に面白く、叙述トリックが冴え渡っている名作だと思います。

ただ、私が読んでいて(正確には「読み返して」。1回目は気持ちよーく騙されましたので笑)「これはズルくない?」と思ったセリフが二つあります。

「娘は塾に通わせているので、塾にいる時間です」

勘の鋭い六浦が、殺害時刻、泰介の家族がどこでどのように過ごしていたかを問うた際に、芙由子が答えたセリフです。今、夏美がまだ小学生であるという認識を強固にするミスリードですね。

たしかに、夏美は資格試験のための塾に通っていたのですが、22歳の大学生に「通わせている」はちょっと強引かと。映画で六浦がその質問をする際はもうほぼ夏美に犯人フラグが立っていた故に、このセリフは割愛されていました。

「このままだとほんの小さな子供の手によって、山縣泰介が殺されてしまう」

サクラが初羽馬に語ったセリフ。犯人が小さい夏美、あるいは友達のえばたんと誤認させるミスリードです。

たしかに、小学生当時の自分の行動(泰介のアカウント開設、えばたんへ自宅の鍵が入っている箱のパスワードを教えたことなど)であったり、えばたんが小学生当時に抱いた動機がきっかけで、泰介が殺されてしまうといった意味にも読了後は読み取れなくもないのですが、読み進めている最中にこのセリフはちょっとアンフェアかと思いました。このセリフも、映画では割愛されていました。

叙述トリックにまんまと騙された

なお、叙述トリックで「実は時系列の違いが発生していた」というのは、ミステリー好きにとってはけっして珍しいものではありません。でも、だからこの原作がミステリーとして愚作かというと、まったくそうは思いません。

なぜなら途中で私は、一度はサクラが犯人かと疑った。これもけっして珍しくはない、「犯人を追いかける側が犯人」パターンかと思ったのです。そして次には、娘の小学生の夏美が犯人かと疑った。これまたエラリークイーン巨匠以降たまに目にする、「犯罪を犯せないような子供が犯人」パターンかと。

作者の思いのままにあやつられていて、結果はそのどちらでもなく、スカッと騙されました。だから、原作はミステリーとしても私は存分に楽しめました。

その他、映画と原作小説の違い

ここからは、その他の映画と原作の細かな違いを紹介していきます。

セザキハルヤ

映画では初っ端からセザキハルヤが登場して驚きました。”すみしょー”こと初羽馬に、「これ見てもらえませんか?」と例の殺人写真のツイートを自分がリツイートしたものをDMで送りつけてきます。

初羽馬曰く、セザキハルヤは初羽馬のサークルが主催するシンポジウムに参加していたひとりとのこと。

原作では、初羽馬の友人が、フォローしている雑学botがリツイートしたのを自分でもリツイートし、それを初羽馬が見つけてさらにリツイートということで、丁寧、それ故にリアル。映画は時間の関係上すっ飛ばして上述の流れですが、現実にあまり知らない人からこんなDMが来たら相当不気味だし、リツイートもしないんじゃないかと思いました。

「あんたが、この事件の諸悪の根源だからだろうが」

このシーンのサクラ役の芦田愛菜さんの演技はすごかった。こんな芦田愛菜さん、初めて観ました。多少説教臭い内容ですが、それを嫌味なく、逆にカタルシスを感じる詰め方をしてくれました。

そして、初羽馬を責める内容も、やや原作を読んだ時は感情的な理屈だとも感じたのですが、映画ではとても共感度が高くなっていました。

初羽馬が引用リツイートしたことが炎上のきっかけになったということだけでなく、セザキハルヤは初羽馬以外のインフルエンサーにもDMを送っていたが、それに反応してリツイートで拡散したのはたったひとり、初羽馬だけだということも映画のサクラは伝えたのです。

これは初羽馬にとって、随分と胸に刺さったのではないでしょうか。

芙由子の煮え切らなさには理由があった

警察の取り調べに対して煮え切らず上の空だった芙由子、その理由は、娘の夏美が泰介のアカウントを作って投稿していたことを知っていて、何か今回の事件に関与しているのではないかと思い、娘を庇っていたからという映画のオリジナル脚色。

これはこれでとても納得度が高く、あの態度がすとんと腹落ちしました。でも、夫に対して本当に説明のつかない感情を抱いていて、実際に夫のことを何も知らなかった…という原作の世界観も好きです。

青江(江波戸琢哉)の過去

警察官だった父親が出会い系サイトで女子高生と淫行して捕まり、転校を余儀なくされ、両親は離婚して母親の旧姓「青江」になった・・・などという、えばたんこと江波戸琢哉の辛い過去については、映画オリジナル。

青江が闇堕ちして事件を起こす動機の補強になっていると思いました。

ちなみに、小学生のえばたんが「お父さんみたいな警察官になりたい」と夏美に話しているときに、ん?って思ったんですよね。たしか原作では建築士になりたいと言ってたのに、と。でも、この時はえばたんが映画でああなってるとは気づかなかったなぁー。

塩見と野井

原作では既に会社を辞めていた塩見は、映画では現在も大帝ハウスで泰介の部下。序盤の泰介の炎上を知らない時と、中盤の知ってからの態度の違いが見ものです。「野井さんの家が近いです。そちらに行けば」「彼はゴルフなんて大嫌いなんですよ。僕もですけどね!」には笑ってしまいました。最後には「あなた、自分のことわかってないんですか」と、原作以上にわかりやすく言いきっちゃいます。ちょっと気持ちいい。

映画では、泰介が「野井の家は・・・遠いか」とその前につぶやいていて、さらに泰介がインターホンをならすシーンで、野井が自宅で「(泰介と)仲がいい人なんているんですかね~」と警察の聴取に答えているところに切り替わるので、観ている側としては、え!今はヤバいよ!と焦る。結局原作どおり塩見の家に訪れていたのですが、面白い映画オリジナルのミスリードでした。あと、野井の家にドス・カラスのプロレスマスクがやたら飾られてるのが気になりました笑。

野井は、泰介の無実がわかってからは再び手のひら返しで「信じてました!」とよいしょメール。塩見の反応も見たかったな~。

義母まで手のひら返し

泰介の義母である静子、警察の取り調べに「あたしはね、こんなような日が来るんじゃないかなってどこかで思ってたよ」「あの人はね、どこか心に黒い部分がある。全部ね、自分のことばっかりの人だから、人の気持ちがわからないんです」と核心を突いたコメントをするのは原作も映画も同じだけれど、映画は最後に家の前でマスコミに囲まれて、「最初からそう思ってました。あんなことできる人じゃないです」と手のひら返し。ズコー!

堀と六浦

原作では、堀が所轄で六浦は県警。力関係は県警が上という見方ができつつも、年がずいぶん離れていることから、堀は六浦にタメ口で、心の声でも自分より経験の浅い六浦を下に見ていました。が、映画の堀は六浦に丁寧語で、運転も堀がしていて、六浦を見下しているような素振りは見られません。また、映画では「ご主人のことはどのように思われていましたか」と妻を疑う質問を堀がすることで、さほど原作ほどのポンコツとも見えません。

そのことで、ただただ2人は物事の捉え方が違うだけという側面が、最後の青江の取り調べを見ている場面で余計にくっきりしました。私は好きな改変でした。

エゴサーチ

映画では、「エゴサーチ」が強調されます。スナックしずくでマチコが、息子がエゴサーチばかりしていると嘆き、泰介が「あんなのやる奴はバカです」と言う。

後に泰介は自身のエゴサーチを行って打ちのめされるわけで、このスナックしずくでのくだりがちょっと面白い前段のフリになっています。

ちなみに泰介が「山縣泰介 良い人」で検索したら「この人マジで良い人じゃなかったわ」がヒットしたのは映画オリジナル、面白かった。

マチコ焼きそば

スナックしずくで泰介に振舞われた、原作の「マチコ焼きそば」。映画では単なるインスタント焼きそばになっていました。「実はちょっと自信あったんだけど」というマチコが可愛らしくて好きだったのに、残念!笑

映画で割愛されたエピソード

文庫にして366ページの内容を2時間強に詰め込むのですから、当然、原作小説からカットされたエピソードも多いです。

こちらもいくつか簡単に紹介します。記載しているもの以外にもいっぱいありますので、これから原作を読まれる方は確認してみてください。

『翡翠の雷霆』

正義の象徴として原作で度々登場する少年漫画。実は、セザキハルヤはその主人公の名前です。決め台詞は「俺は俺の信念を貫く」。

「自分が悪かった」と認められるようになる成長物語のサイドレールで、この決め台詞はこれはこれで、重たいものです。問題はこの決め台詞を、軽く使う人間が多すぎるということだと思います。自戒、自戒。

Android搭載ウォークマン

映画ではパソコンのパスワードを変更されておらず夏美は自宅から泰介のなりすましアカウントでツイートができました。故に不要となったアイテム。

原作では夏美が出会い系サイトを使ったことに怒った泰介が、自宅パソコンのパスワードを変更して夏美が使えなくなるためにこちらのアイテムが鍵を握ってきます。

ただ、私は堀と同じくウォークマンといえばカセットやせいぜいMDの世代なので、原作の時からあまりピンときておらず、映画では登場せずにほっとしました笑。

大波憲一のスカジャン

スナックしずくで、歌手が置いていったスカジャンを盗もうとして…。その後の逃亡劇のカギを握るひとつのアイテムですが、映画では割愛。かわりに、映画ではマチコのスマホを盗もうかどうか葛藤しますね。

ちなみに、マチコの息子は映画では泰介の顔を見ていないのに、どうして通報したのだろう。

ツイートアクティビティ

映画では殺害された篠田さんの所属クラブと、鞄から転がり落ちた包丁、そして砂倉紗英という3人目の美人局の存在から初羽馬はサクラを疑ったわけですが、原作でのもうひとつ大きな決め手となったのが、このツイートアクティビティの画面です。Twitterをやっていない人には説明が面倒だからか、映画では割愛されていました。

その分、砂倉紗英は原作ではあえて「スナクラサエ」とワンクッション小さな謎解き要素を入れていましたが、映画では「サクラサエ」と一直線にサクラに結び付けていました。

大善スターポート

原作では「大善スターポート」という初羽馬の大学の近くの展望台が登場します。

初羽馬のサークルの定例会議が最上階のラウンジエリアで実施されていたり、展望エリアでは今のえばたんと初羽馬がニアミスしたり、過去には夏美とえばたんも訪れていたり、1階のホールでサクラが初羽馬とアポイントを取ったり、駐車場が最後の青江が捕まる場面の舞台になったり…と大活躍。

ライトアップイベントも叙述トリックに一役かっています。

まとめ

今回の備忘録

映画『俺ではない炎上』は、ややもすればミステリーとしてはご都合主義ととられそうな部分もいくつかあるものの、それを差し引いても上質なヒューマンドラマの側面も持つ、エンターテイメント作品。

小学生のえばたんは気づいていました。「みんなおんなじことしか言ってない」「自分は悪くない、自分の価値観は間違ってない」「僕はこうならないように気をつけなくちゃ」。

辛い経験を通じての、主人公たちの歪な自己肯定感からの脱皮・成長。この映画で疑似体験した自分も、意識して成長したいと思わせてくれる映画でした。

なお最後に、本記事の文中で、山縣泰介なら許さないような正しくない日本語がきっとたくさんあったろうと思いますが、読者の皆様はご容赦くださいませ。

おすすめの一冊

「俺ではない炎上」浅倉秋成

映画では割愛された細かなエピソードや伏線が気になった方はぜひ、ご自身でも確認してみてください。映画も面白いですが、小説もかなり面白いです!

「六人の嘘つきな大学生」浅倉秋成

同じく浅倉秋成さんの原作で映画にもなった、『六人の嘘つきな大学生』。『俺ではない炎上』同様、違う切り口でSNSの闇に切り込んでいます。こちらも伏線の嵐で本当に面白いので、今作が面白かった方にはおすすめです。

(『六人の嘘つきな大学生』のネタバレ考察はこちら↓)

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